挨拶

 このたびは、当ホームページにご入場いただきまして誠にありがとうございます。


プロフィール

管理人:須藤 聖一   コールサイン JK7RNW  家業は代々農林業です。

戦国時代、金山町の横田中丸城から伊達政宗の攻撃を受け、この地に逃げて来たと聞いたことがありました。横田に移る前は、鎌倉時代に入って神奈川県から来たと聞いていましたが本当がどうかわかりません。
・・・・・・・と思っていましたが、高郷村で発行していた「高郷村村史」年表に天正年間の記載がありました。

  「横田丸山城山内首藤の一族が漆窪村に移り住む」  
会津が秀吉の命により伊達政宗から蒲生氏郷にかわったころです。
漆窪には須藤と名乗る家が多く、首藤と関係あるのかもしれません。当時漢字はどちらとも許されていたようです。
西会津町尾野元の須藤さんも先祖が金山とおっしゃっていました。
ただし我が家の家紋は「下り藤」なので山内首藤とは関係ないのかもしれません。
奥州山内家は会津と宮城県の桃生郡にもあったようです。登米氏とも関係あるそうです。
かつて、登米郡迫町佐沼に住んでいたことがあるので因果かもしれません。
今はろうそくの研究で金山町にもよく行きました。

(有)須藤林業でした。



昭和61年まで写真のように「いろり」がありました


○住まい:不定
          1 福島県郡山市富田町 
          2 福島県喜多方市高郷町
         固定資産税がたいへんです。住民票は郡山にしています。

○特  技:
 それほど上達はしませんでしたが、中学は柔道部、高校はボート部(端艇部)、大学では馬術部に所属、宮城県では国士舘大学出身の佐々木稲生先生より剣道を学びました。また、武山松五郎先生よりシベリア抑留についてお話を頂いたことは今でも決して忘れません。

○高校時代の得意科目:
 物理、化学、 数学 


○   〃   苦手科目:
 現国(常識がない)
 そろばん・・小学校のとき遊んでいてほとんどできない。1から10の足し算だけできる。引き算はやったことがない。かけ算も割り算も全くできない。同級生にのほとんどは、そろばんができる。塾はソロバンしかなかったが、行かなかった。嫌いだった。
 書道・・・・ 落ち着きがなく、先生に怒られてばかりいた。前の生徒の服にいたずら。クニ子をワニ子と呼び、彼女がいじめられる羽目になった。同級会で暴露した。
〇音楽・・・楽譜が読めなくなった。

 「G線上のアリア」という曲は「G戦場のマリア」という戦争映画のテーマソングだと思っていたことを家内に話をしたら、「バカじゃないの」と返された。


○資  格:
 3級自動車整備士、測量士、第2級アマチュア無線技士、乙種4類危険物取扱者、大型自動車免許、日本馬術連盟騎乗者資格C級 柔道C級審判員など

○家  族:
 妻、長男、二男、三男 それから「ろく」という犬   会津の実家に母

○自動車:トヨタアイシス ホンダフィット スズキキャリイ

○好きな飲み物:ビールはスーパードライ、一番搾り 日本酒は八海山(今は山廃純米末広 安くてうまい) 焼酎は薩摩の黒伊  佐錦 ウイスキーはホワイトホース

〇性 格:明るい。困難を切り抜ける。かつてはストイック。硬派。
  大学卒業後、宮城県で仕事をしていました。1年目は自動車整備士の資格取得のために、古川市の自動車整備振興会に佐沼から通い、帰りはいつも夜10時過ぎであり大変なことでした。やっと終わったかと思ったら、2年目から八幡堂のアパートの私の部屋が町内会(八幡堂・鉄砲町)役員にローテーションできまっており、なんと体育副部長に。町民体育祭のメンバー決めで、夜家庭訪問におわれた。、朝5時からの「おはようソフトボール」の練習のため佐沼小学校から事前に鍵をあずかり7時過ぎまで練習に立ち会い、その後出勤。仕事が終わってからママさんバレーのために夜7時〜9時まで立ち会い、施錠をして帰り、翌朝鍵を小学校に届ける。
 このように仙北地区での生活は、地域活動の大切さを学ばせて頂きました。そのため、佐沼の町を歩くと、必ずといって良いほど知り合いに出会いました。20代前半のころです。私の人格形成には大きな影響を与えた町でした。今思うと既に亡くなっている方もいらっしゃると思いますが飲み会の時の楽しい思い出は忘れられません。
 中江の体育館が工事していた頃です。ヨークベニマルはおそらく昭和60年は工事中だったかも。61年には知り合いが、バイトしておつとめ品のシールを貼ってくれました。(転勤後剣道の大会がありました)町内会会長は西条さんでした。体育部長は林賢一さん。今思うととにかく佐沼は活発な町でした。

〇尊敬する歴史上の人物
 河井継之助・・・・陽明学 言葉と実行の人物
 井上成美・・・・・・戦争反対 リベラリスト 戦後英語教育の必要性

 

○こだわり:特にありません。スキーはディナスター、バイクはホンダかヤマハ 、車はトヨタ、工具は安いベッセル、プリンターはキャノン、チェンソーはスチール、携帯はAU、トラクターはクボタ、無線機は八重洲かアイコム、潜水艦は伊400、酒には冷奴と 
カツオのタタキ(スーパーで半額に限る)にショウガのおろしとヤマサの昆布ポン酢かける。つまみに300円以上かけない。キャンプ用品はどこでも手に入るコールマン、時計はソーラー電波防水で安いもの。時計にお金かけるのは理解できない。ローレックスは
時計でない。時計付きの腕輪。車は外車乗らない。お金の無駄。安く長持ちが基本。万年筆は使わない。ボールペンでよい。使うなら600円くらいのディスクペン。工具はJISマークがあり安いもの。飾りより性能が優先する。イデオロギーより現実主義。知識は重要でない。どう社会や人のために生かすかが大事。子孫のための美田を残さず。お金よりも信頼。金のために仕事をすれば金は逃げていく。どう自分を高めるか。人のために行動するか。そうすると金は自然に貯まる。仕事は笑ってする。行動は目的によって決まる。自分の趣味が仕事になれば幸せ。喜ばれることに喜びを。マーケットは「場」でありビジネスとはお互いの悩みを解決することである。真実はただ一つ。生き物は必ず死ぬ。測定には100%はない。必ず誤差が伴う。100%の硫酸はない。多様性のない生き物はすでに消滅した(単細胞以外)。現実は多様性との共存の中にある。多様性を否定する行動はすべて失敗している。
ドイツ人は失業問題の解決でヒトラーを支持した。
ヒトラー万年筆は

っっっっk

ナックルフォアのバウでした(昭和51年荻野漕艇場) 実家の水田肥料散布を手伝う当時小6の三男
写真は高郷の実家。この先鳥屋山登山道方面へ。

                                   


○パソコン歴
・1981年(昭和55年)頃 大学の研究室でシャープのポケコンPC1500。BASICのプログラムで、実験データーの処理で計算させたのが始まり。プリンターが4色ペンでプロットするタイプでした。このころのパソコンはプログラムやデーターをカセットテープにセーブしていました。(csave cloard)またプリンターとして銀色の上に熱転写で黒く移るタイプもありました。研究室ではまだ今のようにコピーが無く、青写真のように出力される機械がありました。

・1982年頃 大学のバイク仲間が富士通のFM-7を買い「コンピューターはすごいぞ。」と喜んでいた。私は残念ながらお金が無くて買うことはできませんでした。このころはいろんな電機メーカーがパソコンを製造していました。(J オーウェルの1984を知る)

・1984年(昭和59年)頃 NEC PC-8801MRを通信販売で中古で購入する。ちなみにクロック周波数は4MHz。5インチのFDもだいぶ安くなった。このころから88BASICに本格的に取り組む。測量のプロクラムやゲーム。ワープロはユーカラK2(東海クリエイト?P1EXEと言う統合型ワープロも登場するが、実は8ビットの世界は終わりを迎えていた)。ワープロ以外のソフトはほとんどの人が自分でプログラムを作っていました。そういえば富士通の16β、NECの98シリーズもこの時期かも。このころの基本給は11万ぐらい(宮城県)だったので16ビット機は買えませんでした。「信長の野望」というゲームもありました。
同じ頃、職場の後輩がマックを80万円で購入。画面は白黒だったが、WINDOWの概念を備えておりマウスを中心に操作するものでした。後からその先見の目に感銘しました。これから10年後にWindows95が販売される。

・1988年頃 エプソンPC286VFを浪江町の取引先の電気屋さんにて購入。20万円ぐらい。クロック周波数は20MHzだったかも。NECは高価だったのでのでエプソンにしました。4Mメモりを増設、HDDも1年後には80MB購入。DOSの環境はほとんど満たされた。一太郎4.3 花子2の組み合わせは抜群。表計算はロータス123。データーベースはTHE CARD3。ファイル管理フリーソフトの「FD」などがありました。88のBASICは読み込めるので、N88BASIC(86)でコンパイルさせてEXEファイルとして使う事ができました。PC286はI/OデーターのCPUに交換してクロック周波数を40MHzにしました。

・1990年頃 パソコン通信、アマチュア無線のパケット無線に興味を抱く。書籍を読みあさる。翌年より通信を始める。パソコン通信はNIFTYサーブ。パケット通信はMOネット。TNCはタスコT20Hを使っていました。パケット通信やプロトコルの基礎について学ぶことができました。今ではパケット通信もインターネットの普及により徐々に離れていきました。

・1993年頃 Windows 3.1が出始めました。このときはマルチメディアという言葉をよくく耳にしました。ただし全く買う気になりませんでした。値段が高く、すぐに新しい機種が出る。これに全くついていけませんでした。このころCPUのクロック周波数が33MHz〜66MHzあったと思います。その後1995年に Windows 95が登場しています。ちょうど長男の病気で私も京都に入院していた頃です。

・1997年頃 Windows95が出て2年後、ノートパソコンNEC Lavie nw 150 を購入。カタログでは50万円なのが30万円。大変安いと思いました。しかし失敗が。NEC最後の98シリーズでDOS/V互換機ではない。これが後にいろんな面で困ることになる。インターネットを始めプロバイダーはNIFTYにしました。

・2002年  今のパソコン NEC LavieC LC700/5を福島から転勤記念に買う。同時にADSLにし、プロバイダーは値段の安い「ぷらら」にした。OCNと同じNTT系列のプロバイダーですが、違いが全く分かりません。なおこのパソコン、2年後にはDVDドライブがだめになりました。

・2003年頃 プロバイダーは「ぷらら」でしたが、値段の安い料金800円/月ですが、インターネット以外の他にHPのサービスを利用しないのは勿体ないと思うようになり、ホームページビルダーを購入し開設しました。しかし、ここに大きな失敗があります。HPは企業や団体などの組織をアピールには適しますが、個人のHPでは何となくやりにくさを感じてしまうのです。「さて、何をテーマにするか・・・」あれもこれも取り入れたため、主題のぼけた内容になってしまいました。和食も中華も洋食もだす食堂はどうでしょう。あまりお客も入らないと思います。その後同じように私のHPも同じような運命をたどります。


HDDを丸ごとコピーしているところ

・2009年 フレッツ光を導入しました。ついでに家内にノートパソコンを購入し、ついでに3千円ぐらいでルーターを購入し無線LANにしました。本当はLANケーブルでつなぐ予定でしたが無線LANはとても便利です。家の中どこでもインターネットができます。子供のため、iフィルターを購入しました。家内のためにノートパソコンを購入。どんどん性能は良くなり、値段も安くなる。昔の値段って一体何?と思った事がありましたが、世の中はすっかりグローバル化。技術の値段が下がり、理数系の希望者が減り、一流企業が赤字へ転落。文系をねらう大学生は高倍率で就職難。人と同じ事をしていては、はい上がることはできない。
・2013年我が家の携帯電話がAUの事もあって、AUひかりに変更しました。ぷららは停止。AUひかりではso-netをプロバイダーにしても、NTT]よりは安いという。しかし落とし穴が。so-netのHP登録が月980円。年間で1万円超えるなら、無料のサーバーをということで、FC2にすることに決定。しかし、FC2はアダルトサイトにより運営されているので、私のHPの品位が問われるかもしれない。



  

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