地理・歴史について


会津生まれのせいか、どうしても会津に関する内容に偏りがちなので、私の勤務するあたりのおもしろい場所を紹介します。


鏡沼(かげぬま)


 芭蕉の奥の細道に「かげ沼と云うところを行くに、今日は空曇りて物陰うつらず」と1689年4月23日に記録してあり、「かげ沼」は私の勤務する福島県岩瀬郡鏡石町の重要かつ歴史の不運・悲劇に溢れる史跡であります。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝が1199年53歳にて急死したあと、頼朝の妻政子と政子の実父北条時政は、北条政権の確立をじわりじわりと目指していきました。そして北条氏の度重なる策謀によって、源氏や源氏に深いゆかりのある人たちが次々と殺害されていきました。当然、北条に対する不満は大きく、打倒北条の大乱を信州、越後、下総、上総等の土豪に働きかける動きがありました。その首謀者としてマークされていたのが清和源氏の流れを汲む信州の泉小次郎親衡(ちかひら)であり、北条一派からねらわれることになりました。

 泉小次郎親衡は下総(千葉県)の和田一族と結んで大乱を企て鎌倉にとらえられますが、張本人の親衡はスキを抜けて反撃し逃亡してしまいました。幕府の侍所別当和田義盛(頼朝の時代からの御家人で北条時政にとっては目の上のたんこぶのような存在であったようです)の甥胤長(たねなが)や子義直・義重らが泉に加担したとして、メンツをつぶされた幕府からきびしい処罰をうけました。その中で和田胤長だけは許されず、須賀川の二階堂家に流されました。後に和田一族はこれを不満として北条氏に対し、和田合戦となるわけですが、和田一族は全滅し、和田合戦の原因となった胤長は1203年6月1日に処刑されてしまいました。

                                  資料 吾妻鏡     吾妻鏡建暦3年1月

 鎌倉にいた和田胤長の妻、天留婦人は、夫に会いたい一心から陸奥への一人旅を決意し、幾山川を超えてこの地鏡石までたどり着きました。もうすぐ夫に逢えるうれしさに懐の鏡をとり化粧をし 身のつくろいを済ませ(この場所を「化粧が原」と呼んでいる)夫の許へと急ぎました。かげ沼の近くで里人に、夫胤長はすでに誅殺されたことを告げられ 悲情のどん底に泣き崩れ 鏡を胸に抱き 夫の後を追って沼に身を投げました。時に胤長31歳、天留婦人27歳でした。        

  天留婦人と一緒にかげ沼に沈んだ鏡はいつまでも沼の底で照り輝いていたといわれそれから鏡沼といわれるようになりました。

  この話を知っていた芭蕉は、鏡沼を訪れました。しかし、ちょうどその日は曇りの天気だったらしく、あたりを映すことがなかったようです。

 鏡沼を臨む 
跡には芭蕉と曽良の像が建てられた。 
 鏡沼跡には滑り台などの遊具が備え付けられている。

          
一里塚


一里塚は、今から400年前に、当時の徳川家康の命で、全国の主要街道に日本橋を基点として、一里ごとにもうけられた塚です。須賀川の一里塚は、現存するものでは数少ないものであり、街道の両脇は高く盛り土され、榎木が植栽されていたといわれます。


須賀川城趾

 須賀川城趾。二階堂神社がある。二階堂神社を須賀川城趾としたのか?。
 須賀川城の地図
この看板は通路の反対側につけたほうが解りやすかったかも。 
 小林 久敬 の顕彰碑

炊神館神社の参道を通るとこの顕彰碑がある。
安積疎水のはじめの考案者である。
 「安政四年中町検断庄屋加格商家主、猪苗代湖から当地方へ揚水導入計画に全財産を投じ、これが安積疎水計画の発祥となり、銀杯を下賜された。明治二十五年七十二才没。後年、当社墓地に奥都城建立。」とある。
安政四年は1857年でこの1年後の安政五年、日米修好通商条約安政の大獄がおこる。
 公立岩瀬病院
明治に須賀川医学校として開設。後藤新平が若い頃医学を学んだところ。同じ岩手県出身で後の総理大臣になる原啓に政界を勧められ、医者として活躍する。板垣退助の手当もしたようである。
 福島県立病院の前進とし須賀川から福島(今の合庁)に移転。福島県立病院は昭和62年ごろ福島市光が丘に移転して現在に至っている。



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